2014-11-05 第187回国会 衆議院 外務委員会 第5号
また、廖承志副団長は、世の中は道はない、歩く人が多ければ道となるという魯迅の話を引用し、歩き続ければ日中友好の道が開拓されることになると話されたと言われています。 代表団は、十三日間の滞在中、東京、名古屋、京都、大阪など六都市を訪問し、各地で交流した日本人は実に七、八万人を超えるとも言われております。
また、廖承志副団長は、世の中は道はない、歩く人が多ければ道となるという魯迅の話を引用し、歩き続ければ日中友好の道が開拓されることになると話されたと言われています。 代表団は、十三日間の滞在中、東京、名古屋、京都、大阪など六都市を訪問し、各地で交流した日本人は実に七、八万人を超えるとも言われております。
○石川博崇君 今、最後に大臣おっしゃっていただきました留学生三十万人計画でございますが、先ほど魯迅と西村真琴の交流を通じて言わせていただいたとおり、将来的な投資としてやはりこういう民間レベルの交流を深めていくためにも、留学生の受入れ事業というのは極めて重要だと思います。
○国務大臣(岸田文雄君) ただいま委員の方から魯迅のお話を伺いましたが、言うまでもなくこの近代中国を代表する文学者であり、日本の教科書も、たしかあれ中学校の教科書で私は「故郷」という作品を読んだ記憶がありますが、小中学生を始め多くの方々に親しまれております。私も「阿Q正伝」は読んだ記憶があります。
中国の有名な文豪魯迅のことでございますが、実は、私の地元は大阪の豊中市というところでございますけれども、ここの豊中市で中国の文豪魯迅とそして豊中市出身の西村真琴氏という方の交流を記念する展示会及びパネルディスカッションというものがございました。
魯迅の詩でこういう詩があります。千夫の指にあらがうですかね、そして、こうべを伏して、甘んじて孺子の牛とならんという言葉があります。ですから、これはやはり、批判は結構です。いかようにもそれは受けます。至らぬ点は直します。しかし、今、きょうここで私がわかりましたといって、委員の意見をそのまま聞いて席を立つわけにはまいりませんので、責任を果たします。
私は、以前、一九七七年ぐらいでしたか、中国の文学者の魯迅という方がいらっしゃって、その魯迅のふるさとの紹興という、あのあたり、ずっと江南地方を訪ねる旅行がありまして、そうしたら、そのところに一人、アジア経済研究所の人が入っておりました。
もともとは魯迅の言葉でしょうか。私、大変印象深く、感銘を受けて拝聴いたしました。 というのは、私が学生のころ、菅直人さんが、あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会というのをやっているのをちょっと知りまして、その講演会に江田三郎先生がお出になった。その後、一人で社会党を離党されて、菅さんと一緒に社会市民連合をつくって、全国区の参議院比例に出るということを表明されたんですね。
また、中国に関しましては、日中両国で深く親しまれてきています作家の魯迅、これをシリーズで取り上げたりしてきているところであります。
そして、再編・統合ということが、数減らしを目的とすることでもなく、また行政改革の一環としてのその予算の関連での縮小を図るようなそういう目的ではなくて、ひたすら、今おっしゃった、人間を確立するという魯迅の言葉を御引用になりましたけれども、しっかりした人材を育成していく、優れた研究を活発にしていく等のそうした使命を持った大学を世界に比肩し得るものに充実をしていくという願いを込めてやっているわけでございます
というわけで、早速質問に入らせていただきたいと思いますが、まず第一に、人間を確立することが大切である、人間が確立した後、初めてあらゆることがその緒に就く、これは大文豪の魯迅の言葉であります。一切は人間で決まると。人間さえ確立されれば何でもできると。
魯迅の「狂人日記」の末尾は、清朝末期のあの惨状の中で、子供を救えという一文で終わっております。我々日本もその状況に来ていると思いますね。
また、中国の文学者であり大思想家である魯迅は、仙台の医学専門学校に二年間遊学されました。そのよしみで、現在でも日史友好のかけ橋として仙台の人々の敬愛の的になっております。また、インドの革命家ビハリ・ボース氏の亡命を助けて手厚く保護をされた相馬黒光さんも仙台の出身でいらっしゃいます。近くは姉妹都市ミンスクの、チェルノブイリ原発被害の子供たちに温かい救援の手を官民挙げて差し伸べております。
特に中国の方は周恩来先生を初め作家の魯迅、こうした方々も日本に留学をされた体験がございます。そうしたこともいろんな記録によって残されております。 私は十何年前に、ある中国の方が次のような詩をある雑誌に載せておられたのを読みました。
魯迅の家に行っても、田舎でのお母さんがひねもすやはり質素な生活で働き抜いたのです。文字もろくに知らない人でしょう。だから、やはり魯迅のような人物も生まれたのです。
私自身、中学時代に教科書で魯迅の「故郷」に触れ、中国や中国人を知る契機となった。文部省の調査官は反省し、高さんの文章を復活させてほしい。 こういう談話が載せられております。私も「失われた私の朝鮮を求めて」というこの文章は非常に印象深く受けとめたわけですが、「私にとっての日本語」と、次のようになっておるのですね。
かつての孫文、魯迅あるいはいまの中日友好協会の廖承志さんあたりのたどった足跡というものを考えましても、果たしてどうであったかということを、いま云々する立場ではございませんけれども、そういう禍根を残さないためにも、この辺は基本的な今後の日本政府としての受け入れの態勢というものは万全を期さなければならぬだろう。
○寺田熊雄君 それから、政治亡命についてお尋ねをしたいわけでありますが、これはずいぶん歴史の古い問題で、戦前でも孫逸仙の亡命、それをば頭山満とか犬養毅とかいうような人がかばったとか、あるいは上海の租界先で魯迅を内山完造氏がかばったとかいろいろこれは歴史がありますし、戦後も台湾におる中国人が日本に来ると。
魯迅のようなすぐれた文化人も再び日本を訪ねることはしないという形の決意をさせた。それほど思い詰めさしたということは、日本にいつも自分の立場だけは主張して、相手の立場をくみ取るだけの、地下三千尺の水の心をくみ取るだけの惻隠の情がなかったからであります。
魯迅のようなすぐれた人はすぐれた日本人の教師との接触によって啓発されたが、おおむねは日本人の差別観によって自分たちが本当に民族独立をかち得なけりゃ、この侮べつからわれわれは抜け出ることはできないという形において、日本に勉強して帰った者は皆排日、抗日の先駆者になった。
やはり魯迅が仙台において、あれは藤野先生でしたかな、あの人格に打たれたように、そういういいものを日本人は持っているんです。 ところが、いろいろ留学生を取り扱う機構になると、責任をかぶっちゃいけないという形で言うことも言わない、取り締まりだけは厳重にやる、これじゃ人情が移りっこはないんで、そこいらの人心の機微というものをやはり若い学生たちには与えていくような配慮が必要であると思います。
いろいろな歴史が常に権力者本位に物を書かれておりますけれども、歴史の秘史というか、日中関係におけるいままでの留学生や魯迅の時代、戴天仇の時代あるいは周恩来の時代、摩承志君の時代、もう日中関係においてそういう中国側にも人が出ておりますけれども、日本でももっと日中関係の秘史というか、そういうものをやはり人間関係の結びによって――不幸に彭湃君なんかも一九二九年のクーデターで上海で殺され、彭湃デーは設けられておりますが